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技術力と表現力、どちらを評価すべきか?

2010年2月22日 16:31 | | トラックバック(0)
バンクーバーオリンピック 男子フィギュア メダリスト達
(IBTimesより)

いやぁ、普段オリンピックがあってもその結果なんて言うのはニュースでちょろっと見るだけで、メダルに到達しなかったりすると、そんな競技あったんだね、ぐらいな感じでほとんど感心なく終わってしまう事が多かったりするんですが、今回はたまたま録画していた番組が男子フィギュアの特集にさし変わっていた関係で、男子フィギュアだけはよく見た気がする。

で、男子フィギュアの結果はみなさんご存じのように、高橋大輔が銅メダルと、日本人初の男子フィギュアでメダルを取った。


今回の男子フィギュアで注目されていたのは、ロシアの"皇帝"プルシェンコが連覇をするかどうか、という事と、高橋大輔がメダルを取るかどうかということで、いつもよりも特集を組んだ番組が多かった。

プルシェンコも高橋大輔も、「四回転」を目玉にしており、特にプルシェンコは「男子フィギュアを進化させるには、四回転が中心にならなくてはいけない」と主張する、四回転推進派の代表格になる。

その一方で、今回のオリンピックで金メダルを手にしたライサチェクは、四回転には「慎重派」であり、今回の演技の中でも四回転ジャンプをすることなく、無難に演技を終えた。

今回の結果に対し、プルシェンコは以下のようなコメントを残している。

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銀プルシェンコ怒...採点システム変更を!
https://www.daily.co.jp/newsflash/2010/02/20/0002726696.shtml
デイリースポーツオンライン 2010年2月19日

 エフゲニー・プルシェンコ(27)=ロシア=は怒りが収まらなかった。男子では58年ぶりとなる連覇の大本命とされながら、SP首位から銀メダル。表彰式が終わると、すぐにメダルを首から外して不満をぶちまけた。

 「採点システムは変更されるべきだ。五輪王者が4回転ジャンプの跳び方を知らないならば、男子シングルではなくアイスダンスに名前を変えなくてはならない」。冒頭で4回転-3回転の連続ジャンプを決めた。やや傾いたトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)は減点こそあったが、4回転を跳ばなかったライサチェクに逆転された。

 自国開催のソチ五輪へ、「(トーループより高難度の)4回転ルッツを跳べるようにする」と4年後をにらんだ。
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プルシェンコ、怒りの銀=採点基準へ不満隠さず〔五輪・フィギュア〕
https://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2010021900896
時事ドットコム (2010/02/19-18:30)

 勝者ライサチェク、健闘の高橋がいる記者会見場に、しばし遅れてトリノ五輪の王者が加わった。プルシェンコは「勝利を確信していた。エバン(ライサチェク)が僕よりも、そのメダルを必要としていたということだろう。独り占めはできないから」と皮肉を込めた。

直接的なジャッジ批判はしない。だが、採点に対する不信感はありあり。引き揚げてきた通路では「昔の採点基準なら勝っていた。今のフィギュア界が何を求めているのか、この結果で明白になった。もはや4回転ジャンプに価値はない」-。
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上の二つの記事を読んでもらうとわかるように、明らかにプルシェンコは今回の評価が「技術<表現」となっていたことに不満を抱いており、高度な技術に取り組む姿勢よりも、無難にミスのない演技をすることが評価されるのであれば、「アイスダンス」でしかない、とまで言っている。


■技術力と表現力、どちらを評価すべきか?■


プルシェンコの意見を読んだとき、確かに納得がいくところもあった。技術の進歩を続けなければ、いずれは同じ枠に当てはめられた演技の繰り返しが起こり、「競技」としての退化をまねく。

「ミス無く演技をする」ということに始終してしまうと、例えば今回のオリンピックで第六位に終わったジョニー・ウィアーなどをみても、ライサチェクと同じように、「ミス無く演技」をしていたのにも関わらず、本人の印象やその場の雰囲気によって、総合的な評価が低くなってしまう。

「表現点」を中心とした採点方法に偏ると、採点者の好みや場の雰囲気、政治的意図に大きく左右される結果となる。

それを防ぐためにも、客観的見てある技術が「出来ているかどうか」という採点方法は有効であり、四回転が高く評価されるシステムであれば、高度な技術を駆使できるプレイヤーの方が上位に並ぶ、という結果になるだろう。


■フィギュアは、「演技」なのか「競技」なのか■

プルシェンコの主張を擁護したところで、今度は反対側の立場の意見を考えてみると、そもそも「フィギュアスケート」というジャンルのスポーツは、「演技」をするものなのか、「競技」をするものなのか、どちらだろうか?

僕個人の考えを言えば、フィギュアスケートは「演技」をするスポーツだと思っている。

その根拠にあるのは、「音楽」にのせて「演じてみせる」ということが主題となっているスポーツで、本来であれば「○○の技術が出来ているから、そちらが上手い」とかいう評価をするようなスポーツではないと思う。

これはストリートダンスの世界でも同じで、たまたまDANCE DELIGHTのようなダンスコンテストがあるので、それぞれのダンサーやチームを「評価」し「採点」する必要が出てきているだけで、本来はストリートダンスは「自己表現の手段の一つ」でしかなく、自分が好きなように音楽に合わせて踊って、それで楽しければ、ストリートダンスの目的は達成できたと思っても間違いじゃない。

見ていて技術的に下手くそだと思うダンスでも、その人の人間性やダンスに対する情熱や、その場の空気を盛り上げるキャラクター性が高ければ、結果として素晴らしいダンサーだと評価されてしかるべき世界だ。

フィギュアスケートも、僕は同じだと思う。

そういった意味で、本来のフィギュアスケートの目的から考えれば、「技術>表現」という採点に傾くのは、「競技」の為のオリンピックやコンテストの都合であって、技術優先にすることで怪我人が続出し、その結果選手がフィギュアを滑れなくなってしまっては、本末転倒になる。

そういった意味では、今回のオリンピックで「四回転」があまり高く評価されず、安全に演技をこなし、その上で表現度が高い選手が上位に入賞したと言うことは、本来のフィギュアスケートの目的にはかなっていると思う。


■演武の評価にも「技術点」と「表現点」がある■

男子フィギュアの話をしたところで、今度は少林寺拳法の大会の評価について書いてみると、少林寺拳法の大会は、基本的には「演武」を評価する大会になります。

■参考■
特別な修練-大会について
よくある質問-大会などについて

演武の大会と言っても、昔のように時間や技の構成数に制限がないということはなくて、今は時間は1分30秒~2分、6構成までという規定がある。

その他にも年齢による使用禁止技の規定や、演武を行う拳士の資格が異なる場合の規定などもあり、「演武」を組み立てる際には、ある程度の枠が存在します。

その「枠」におさまる内容であれば、おおむねどのような法形を組み合わせてやっても、それで失格になるということはないんですが、じゃあ出来上がった演武が、リズムは悪いわ、技はかかってないわ、気合いは出てないわ、無理がありまくりだわ、となると、やっぱり評価が低くなる。

少林寺拳法の演武の「評価」は、技の正確さや冴えをみる「技術点」と、体構え・構成・気迫気合といったものを評価する「表現点」の二つがあり、6つの構成を一つずつ審査し、すべて終わったところで、全体としての表現度を採点し、最終得点を出す。

この少林寺拳法の演武の評価というのは大変難しく、採点する先生の技の好みや教え方によって、技術点に大きな開きが出てしまう。

なので、毎年の審判員講習会において、基本的な採点基準の模範をみせ、実際に全国大会の拳士の演武と一般的な拳士の演武をビデオで流し、どの演武が全国大会レベルなのかを判断する採点訓練を行っています。


■少林寺拳法は、「演技」なのか「競技」なのか?■


大会が存在する以上、少林寺拳法は宗門の行である、といってもどうしてもそこには順位付けが必要となってくる。

少林寺拳法の大会は、拳士同士の技術の研鑽と自分の努力結果を評価してもらう場であり、決してよその道院より自分の道院の拳士が上だとか、そういう事を比較するために行われるものではないです。

ですが、非常に難しい問題がここにはあって、「演武」は本来は「評価」するものではなく、ストリートダンスと同じで自己表現の手段の一つです。

この「自己表現」というのは「個性」であり、それを見る人の好みにも、ものすごく影響される部分になります。

なので、「演武」は、見る人の好みと、演じる拳士の好みの数だけ評価がわかれるもので、それを一定の枠にはめて採点しようとすると、どうしても「技術」を中心とした評価になります。

「技術」中心の評価法を突き詰めていくと、「演武」を組み立てるという「個性」を廃した規定演武というものが生まれることになり、 かかってもいない技で見栄え良く飛ぶ、なんていう本末転倒な事態が起こる原因となりました。


■フィギュアも演武も本来の目的を見失ってはいけない■

フィギュアスケートも少林寺拳法の演武も、本来の目的は「大会で順位をつける」ものではないと思うんです。

それぞれの本来の目的を見失ってしまうと、プルシェンコのような「技術至上主義」的な発想が生まれるし、少林寺拳法だと、「技が上手くて強ければ偉い」という流れが生まれる原因にもなると思います。


少林寺拳法をやる以上、「技術力」は絶対に必要です。だけども、それ以上に「自分自身の生きる力」「人と共に生きる」事を学ばなくては、少林寺拳法をやっている値打ちはないと思います。

技術は自信の土台になっても、決してそれを表に出して主張するもんではないし、大会における「評価」の目的も、「技術の優位性」を証明するだけのものにならないようにしなくてはいけないなぁと、今回のオリンピックをみてつらつらと思った僕でした(-人-)


(北野)

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