大阪で少林寺拳法 〜 金剛禅総本山少林寺 大阪高槻道院

誘導法となれ合い修練は全然違う

Posted on 2010年05月24日

昨日は大雨の中大阪武専に行ってきたんですが、昨日の稽古で感じたことを書いてみようと思います。

今回のタイトルは「誘導法」「なれ合い修練」の二つについてのお話になるんですが、少林寺拳法の修練をしていると、技がかかっていなくても倒れてあげる、という状況をちょいちょい見かけることがある。

特に級拳士の修練に多く見られる光景で、技をかける方の技術が十分でないために、技をかけられる方がどうしていいかわからず、とりあえず倒れたらいいんだろう、みたいな感じでゴロっと転がる。

これはこれで仕方がない事だとは思うんですが、この「わざと倒れてあげる」というのと、先生達がやっている「誘導法」による指導をごっちゃにしている人がいるようだ。

■誘導法による指導とは■

誘導法による指導というのは、技の原理をよく理解している高段者が、技の原理を理解していない拳士に技術を指導するときに、自らが技をかけられる立場になって、直接力のかけ方や、攻める角度、重心の移動方向などを指導し、未熟練拳士がスムーズに技をかける手助けをしながら、技術の習得を目指す、という指導方法になる。

実際に高段者が未熟練拳士に技をかけてもらいながら、口頭や手の補助を使って角度を調整し、正しい手の動かし方や、角度などを説明するため、未熟練拳士に実際に投げるという事を体験してもらう事が出来る。

この誘導法による指導については、本部が会報や昔の月刊誌などにも掲載していたように、高段者が一方的に、「オイお前、こうやれば出来るんや」、と技をかけて終わる指導方法よりも、
初めてその技を習うような未熟練拳士にとってみれば、技の仕組みが理解しやすい。

本部の新井庸弘先生が本部講習会で常におっしゃっているように、「理を知れば、誰でも最短で技術を習得できる」という事につながっている指導方法で、本当に投げるという体感が無い状態で修練を続けていると、「理を理解する」という事に大変な苦労を伴う。

なので、僕の指導方法はどんな相手に対してでも、常に「誘導法」を用いるようにしている。

■誘導法を身につけるのに必要な事■

この誘導法による指導は、未熟練拳士に技術の「理」を伝えるのに大変有効な方法ではあるんですが、この指導方法を身につけるためには、自分がその技術が「出来る」ようになる事以上に、本当に技術力のある先生達に出来るだけ数多く「投げられる」事が大事だと僕は考えています。

何故ならば、投げられ役で指導をすると言うことは、本当の「投げ」を体得していないことには、お話にならないんですよ、うん。

誘導法で教える方が「こんな感じで投げれると思う」みたいな曖昧な説明では、角度が悪いのか、重心の操作が悪いのか、力のかけ方が悪いのか、が全くわからない。

だから、僕は武専でも本部の講習会でも、進んで指導員の先生達に相手役をやっているので、武専の同じ科に所属している拳士はよく知っての通り、ほかの人の10倍は投げられ続けてる。というか、ほとんど僕が相手をしているんじゃないかなぁ。

おかげさまで、六段七段の高段者の先生に何百回も投げてもらっていると、相手が掴んで技をかけてきた瞬間に飛ぶか飛ばないかわかるし、どうすれば投げれるかもすぐに教えてあげることが出来る。

■誘導法となれ合い修練の違い■

誘導法は、「理」を伝えるために高段者が正しいフォームを指導しながら投げられるので、投げてる方はおおむね正しい動作をしているんです。だけど、なれ合い修練は正しい動作をしていないまま、ただ倒れているだけなんです。

この違いがわからずに、「先生は倒れてあげている」みたいな事をいう人がたまにいるので、なんともはや、と思う事も(-ω-;)ウーン

もっと論外なのは、技をかけさせまいとして投げられる方が思いっきり技がかからない方向に力を入れて、強引に押さえ込んでくること。そゆ人たちを見る度に、この人は「少林寺拳法の技がかからない自慢」をしているんだろうな、と情けなくなる。

少林寺拳法の法形の修練は、Aパータンで攻めてきたときこのように対処する、という決まったパターンでの防御から反撃の修練を繰り返すことで、とっさの時に身体が無条件に反応できるよう、身体に覚え込ませる修練をしているんです。

Aパターンの攻めという前提があって、その次の反撃の技術があるので、そのAパターンをつぶす事は=で反撃の技術を封じることになるのは、あたりまえ。

先代の田邊先生がよくおっしゃっていた事ですが、「本部にいる古い高段者の先生をいちびって、技をかけてみろ!みたいな事をやれば、相手は何をするかわからんで? それで骨折しようが鼻が折れようが、金的つぶれようが、それはいちびった人が悪い」という話がある。

実際亡くなられた9段の先生方のこの手の話はものすごいたくさん聞いているし、あの時代の先生だったらあり得るだろうな、という話ばかりだ。

つまり、技をかけさせまいとしてむちゃくちゃな押さえ込みをしている人というのは、目打ちや金的といった「当て身をしてこない」という甘えのもとにそういう行動に出ているんであって、巻小手でも首締めなどの締法でも、相手が両手をふさいで馬鹿みたいに握りしめているときは、守者の両手両足は自由なんです。

本気で金的蹴られても本来文句は言えない立場なんですが、守者は常識があるから修練中は「当て身を入れない」

相手に怪我をさせないために当て身をあえてやらないから、技をかけさせまいと力んでいる相手に技が掛けられないのであって、目を突くとか超至近距離で三日月に鈎突き入れるとか、中段蹴りをするとか、金的を本気で蹴り上げるとか、「普段の稽古でも怪我をするからやらない」反撃をしてもいいなら、技がかけれないなんてことはないんです。

それ以上に、そんな馬鹿げた仕掛けをしてくる相手に怪我をさせてまで技の修練をする意味なんてないと僕は思う。

傷害事故は、どんな状況であれ怪我をさせた方が分が悪いんです。

■誘導法にもかけさせない指導法はある■

一つだけ誤解しないように補足しておくと、誘導法で指導しているときにでも、あえて指導員の先生達が技がかからないように力を加えることがある。

これは、守者が間違っている方に力を掛けて無理矢理ねじようとしている時に、その方向に力を掛けてもダメですよ、という意味で力を加えて技を掛けさせない場合の話だ。

このパターンで指導している先生達は、正しい方向に力を掛けたときには、必ず技を掛けられてくれるし、よし、そのまま!と言った声を掛けてくれる。

なんにしても、「なれ合い修練」「理を無視した強引な押さえ込み」と、誘導法による指導には、天と地ほどの差があるのだ。

(北野)